廻る物語
綺麗だなんて。
言ってもらったこと無かった。
ああでもきっと。
私の真実の姿を見れば、貴方も離れていくに違いない。
染め粉をつけ、ゆっくり髪に馴染ませる。灰のような色の髪が黒く染まり、三郎はそれを丁寧に纏め上げた。その上からいつものこげ茶の色をした鬘をつければ、普通の人間とどこも変わらない。
そのことを静かな水面でよく確認する。少しでも綻びがあればすべてが無に帰してしまう。
「……………よし。」
長い間何度も確認し、自分で合格を出す。
もうこの5年間何度も行ってきたことだ。
裏裏山の奥の小さな泉。そこが、三郎が唯一、生来の姿を現す場所だった。
どこに目があるかわからない学園では決して変装を外すことはできない。誰もが父のように受け入れてくれるとは限らないのだ。
だから三郎は誰にも告げずここへくる。
道なき道の中にあるごくごく小さな泉だ。気づかれることはまずない。
身支度を整え、三郎は自嘲した。
自身を消し忍ぶことが役目の道だ。まさかこんなに自分に馴染むものだとは思わなかった。
「今度親父に手紙でも送るかね。」
「はーちやー!!」
学園の門を抜けるとすぐ、小平太の声が響く。
三郎が何の気もなしに声のした方へ振り向くが、誰も見当たらない。
仕方なく気配を探すと、屋根の上で手を振っている小平太を見つけた。
「…七松先輩。そんなところでなにを?」
「なに、体育委員たちを待っているんだ!しかしすごいな鉢屋!すぐに私を見つけるなんて。」
「自分から声をかけておいて何をいいますか。」
「しかし私は気配を消していたぞ!この間金吾相手に同じことをしたら全然気づかないかった。滝も少し時間がかかったし、三之助と四朗兵衛もその倍は時間がかかっていたよ。」
「…先輩は動きがうるさいんですよ。あれだけ動かれていればわかります。」
「そっか!まあ!私は鉢屋に見つけて欲しかったからいいんだけどな!」
「…そうですか。」
疲れる会話だ。
「では先輩。私はこれで。」
「ん?なんだ。もう行ってしまうのか?」
「雷蔵たちが待っていますから。」
「そうか!じゃあまたな鉢屋!」
「ええ。また。」
「あ、鉢屋。おかえりー。」
「お帰り。三郎」
「おかえりー」
「ただいま。」
竹谷、兵助、雷蔵ににこやかに迎えられて三郎は顔をほころばせた。
5年来の友人である彼らにも、自分の素顔を見せたことはない。それでも友人として付き合える関係に、三郎はひそかに感謝の念を捧げていた。
「今そこで七松先輩に会ったよ。」
「へえ?もう夕餉の時刻なのに。今度は何をしていた?」
「屋根の上で体育委員たちを待っていた。」
「何故に屋根?」
「何故に一人?」
「って一人なのは先輩がいけドンで先に帰ってきちゃったからだろ。」
「じゃ何故に屋根?」
「さあ…」
「何で?三郎。」
「後輩からかって遊んでんだろ。俺もやられた。」
兵助が小首を傾げる。先輩に黙ってからかわれるとは珍しい、と顔に出ている。
「三郎が?」
「なんだよ。」
「まあまあ二人とも。で、どんな仕返しをしたんだ?」
「竹谷。人聞きの悪いことを言うな。別にひどいことされたわけじゃないし、仕返しもしとらん。」
「三郎、なにされたの?」
「気配消したまま屋根の上から声をかけられた。」
「あー…。」
三人がなんとも言えない顔で曖昧な笑顔になった。三郎もそれを見てさもありなんと頷いている。
「なんというか…七松先輩もしょうもないことを…。」
「あの人気配消すの上手いんだから、もう少し手加減してやればいいのに。」
「で、三郎はすぐに気がついたのか?」
「だってあの人屋根の上で手振ってるんだぜ。すぐわかるっての。」
「いやあ俺自信ないなぁ。」
「僕も。」
「そうか?」
「兵助は大丈夫かも知れないけど。」
竹谷と雷蔵が苦笑している。三郎と兵助は顔を見合せた。
それを見て竹谷がそう言えばと身を乗り出す。
「三郎は気配とか敏感だよな。なんつーか、獣並?」
「ハチ。それは褒めてんのか?けなしてんのか?」
「いやいや!褒めてる褒めてる!当然だろ!?」
俺達友達!な!とひきつった笑いでバシバシと乱暴に背中を叩かれた。
「でも三郎はほんとに気配を探るのがうまいよね。」
「そうそう。それでおれたちが何度助かったことか!!」
「おかげでうちの組は鉢屋には負け通しだ。」
「はっはっはっ。そうそう。なんつーか三郎見てるとうちの委員会で飼いたくなるんだよな。」
「………………。」
「まて。まてまて三郎。気持ちはわかるがハチに悪気はない。」
「どうどう。落ち着いて。」
「だってうちの忍犬より三郎の方が侵入者とかにも気付くの早いしよ。」
「竹谷!おまえもう黙れ!」
「………雷蔵。兵助。もういい。風呂入ってくる。」
「あ、うん。」
「またな。」
「またな!!」
にこやかに手を振る竹谷に、半眼になった鉢屋がゆっくり立ち上げる。
「竹谷…。」
「え、なに?ってぇ!!」
「またな。」
一発殴ってすっきりした顔で部屋を出ていく三郎に、雷蔵と兵助が手を振って応えた。
(まったくハチの勘の良さにも困ったもんだ。)
廊下を一人歩きながら三郎は内心で汗を流していた。
誰にも言えない己の過去。
獣同然に暮らし、鬼と恐れられたあの日々。
あまりにも幼かった三郎はその哀しさがわからなかったが、今ならわかる。
二度と、あのような日々を過ごしたくはない。あのような過去を友人たちに知られたくはない。彼らは優しいから、きっと三郎を心配する。それが、三郎には耐えられない。
しかし、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
三郎は、自分の領域に入った異物に敏感だ。昔はそれが命を守った。荒削りとはいえ気配を消す術も、その頃にはすでに習得していた。
「…………………。」
それを生かすよう引き取り育ててくれた養父には感謝している。こんな自分を普通の子供と同じように育ててくれたことにも。
だが、三郎は己に言い聞かせる。
それを当然と思ってはいけないと。
あの父が普通ではないのであって、誰でも自分を受け入れてくれるわけではないと。
だれが教えたわけでもなく、三郎は理解していた。
だから、誰にも己の本当の姿を見せてはいけない。
中庭に面した廊下を通りすぎようとしたとき、何やら向かいの廊下で一年生が固まっているのが見えた。しかもあれは三郎のお気に入りの1年は組だ。その面々の顔はいつものように朗らかでなく、みんな険しい顔をしている。中には泣きそうな顔をした子もいた。
三郎は首を傾げる。今はもうほとんどの生徒が夕餉を取っているか風呂に入っている時間だ。こんな時間になにかあったのだろうか。
嫌な予感がして三郎はその固まりに急ぎ足で近づいた。
「こんなところで固まっちまって。どうした?」
「鉢屋三郎先輩!!」
小さな子どもたちのまっすぐな目が一度に三郎へ向けられる。
そのすがるような目線に、やはり何かあったのだと確信する。
「庄左ヱ門。なにがあった。話してみろ。」
自分のもっとも親しい後輩に視線を向ければ、どこか戸惑った、迷うようなしぐさをする。
しかし三郎がもう一度名前を呼ぶと決心したように顔を上げた。
「金吾が、裏裏山で消えちゃったんです。」
「庄ちゃん!」
「先生は他の生徒に話すなって。」
「動揺させるといけないからっていったんだよ。鉢屋先輩なら大丈夫。信用できるよ。」
「いなくなったのはいつだ?」
「今日、体育委員で裏裏山までマラソンをしていた時だそうです。」
「現在捜索には誰が?」
「七松先輩と滝夜叉丸先輩、それに土井先生と山田先生が行かれています。」
「そうか…。」
聞かれたことにすらすら答える庄左ヱ門の頭を撫でて褒めてやりながら、三郎は考える。
裏裏山は広い。別れ道も多いし崖も川もある。マラソンのコースは小平太と滝夜叉丸が知っているだろうから、だいぶ捜索範囲は狭まるだろうが、人数は多いに越したことはないだろう。
何より自分は、教職員たちも知らない道も知っている。
「庄左ヱ門。」
「はい!」
「私も捜索隊に加わる。君たちは金吾の持ち物…匂いの付いた布なんかがいい。それを持って5年の竹谷八左ェ門のところへ行け。事情を話せば忍犬を出すだろう。あいつは今私の部屋にいる。」
「はい!!わかりました!」
「残りのやつは辛いだろうが、知らないふりを続けてくれ。万が一騒ぎになってしまったら金吾が危ない。」
「ええ!?」
「金吾が危ないってどういうことですか先輩!!」
「さて、想像に任せるよ。」
三郎はわざとおちゃらけた言い方をして1年は組のメンバーを見つめる。
「いいな。おまえたちはなにも気付かなかった。そして今日は夕餉をとってもう休むんだ。明日にはきっと全てが元通りだから。わかったな。」
「……………。」
「わかったな。」
「はい……。」
「いい子だ。」
しぶしぶといった様子でうなずく子供たちに二コリと笑うと、三郎はサッと身を翻した。
庄左ヱ門はそれを見送り、他のは組のメンバーに向き直る。
「喜三太。部屋から金吾の手ぬぐいかなにかを持ってきて。他のみんなは鉢屋先輩が言った通り、もう夕餉を食べて休んだ方がいい。」
「でも庄ちゃん…。」
「僕だって、金吾が心配だ。でも、僕たちにできるのは、今鉢屋先輩に言われたことが精いっぱいなんだ。わかるだろ…?」
「…うん。」
「先生と先輩たちを信じよう…。」
三郎は、薄暗い森をひた走っていた。
走りながら、慣れた気配を辿る。せわしなく動くその気配を辿れば、すぐに見知った顔を見つけることが出来た。
「七松先輩っ!」
「鉢屋!どうしてここにいる!?」
「1年から話を聞きました。私も手伝います。」
「そうか。助かるよ、鉢屋。」
さすがの小平太も顔に焦燥が浮かんでいる。いまだに金吾は見つかっていないらしい。
二人は情報交換をしながら森を捜索することにした。
「…では、金吾は次屋を探していた時に?」
「ああおそらく。今日は金吾が三之助を見張っていたようだから。」
「その次屋はどうしたんです?」
「あいつは半刻ほど前に学園に戻ったよ。でも…」
「金吾はいなかったんですね。…どのあたりかも見当はつかないんですか?」
「恥ずかしながら…。」
「ああ、先輩はそれより前に学園に戻ってましたね。」
「いつまで待っても金吾が帰ってこなくてな…。先生に報告した。滝にも悪いことした。あの子は今もずっと自分を責めてる。帰れと言ったんだがきかない。」
「あいつも真面目な性格ですからね。」
「うん…。」
「先輩。似合いませんから、あまり落ち込まないでください。こちらの調子が狂います。」
三郎のその言葉に、ずっとうつむいていた小平太が顔を上げた。その顔は三郎の予想通り、情けない顔をしていたが、口には苦笑が浮かんでいる。
「まったく…鉢屋もひどいこというな。仙ちゃんみたいだ。」
それに三郎も軽く笑って、足を止める。
「情報交換も終わったことですし、私も別行動にします。」
「わかった。見つかっても見つからなくても、二刻後には麓に集合だ。」
「了解しました。それでは、また。」
「ああ。頼む。…鉢屋!!」
「なにか?」
「ありがとうな。」
月明かりの下、小平太がいつになく真剣な顔で頭を下げた。
めったにないその光景に三郎の方が焦った。
「や、やめてください!私も金吾は知らない仲ではないですし、は組の子たちを悲しませたくないだけですから!」
「ああ。ありがとう。」
「お礼は金吾が見つかってからです。幸い今夜は満月。急ぎましょう。」
「おう!!」
今度こそ調子が戻った様子で返事が来て、三郎は会釈して走った。
今度は一人で走りながら、鉢屋は集中力を高めていった。
余分な情報をどんどん切り捨てていく。
自分の小さな足音。木の葉のざわめく音。夜行性の獣の足音。木の上の鳥の寝息。
風の動き。草の動き。小さな虫の動き。土の下の小さな振動。
水のにおい。土のにおい。花のにおい。草のにおい。
自分の知識と照らし合わせ、森にあるべきものたちを意識から排除する。
自分の肌が敏感になっていく感覚がする。異物をすぐに感じることができる。
森はもともと自分の領域だ。人間の居場所ではない。
侵入者を探せ。
侵入者を探せ。
侵入者を探せ。
ときどき、他の捜索隊の気配に体が動くが、10歳のそれではないと分かり意識から締め出す。
もう体は無意識に動いていた。
茂みがあればとび越え、枝が突き出ていれば手で払う。しかし意識は金吾の気配を探すことのみに注意を注ぐ。赤い目が、闇を駆け抜ける。
小さな子ども。小さな子どもだ。
探せ。探せ。探せ。