紡ぐ物語―三郎
「僕は、認めない。」
雷蔵が去っていくのを、三郎はただ茫然と見つめていた。
頭の中で雷蔵の言葉が木霊する。
『僕らが三郎を守ってきた。』
『僕は、認めない。』
『5年前から。』
『今までずっと同室でいたのに、気が付かないとでも?』
雷蔵。
雷蔵。
彼は、知っていた。
三郎が必死で隠していた秘密を知り、それでも傍にいて、三郎を守っていた。
全ては三郎の望みどおりに。
「雷蔵…。」
三郎は、何も知らなかった。
彼がどんな思いで今まで三郎の傍にいたか。
どんな気持ちで三郎を守っていたか。
自分のことにばかり懸命で、何も分かっていなかった…!!
「………らいぞう。」
私は何を思っていた?
七松先輩のことを祝福してくれると信じ切っていなかったか?
何も話さずとも、わかってくれると思い上がってはいなかったか!?
『僕は、認めない。』
去っていくときの、雷蔵の顔は、どんなだった?
それすらも、思い出せない。
「らいぞう………………。」
流れる涙にかまわず、三郎はただ雷蔵の去った後を見つめていた。
そしてふと、意識が浮かぶ。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
あれほど明るかった外はいつの間にか薄闇に染まり、三郎は医務室ではなく、同じ匂いのする長屋にいた。
「……あれ?」
「ああ。気がついたかい?」
「!!」
声に驚いて振り向くと、穏やかな顔の保健委員長がゆったりと茶を啜っていた。
「ぜ…んぽうじせんぱい?」
「泣きながらまったく動かないものだから、ここまで運んでしまったよ。」
「それは…ご迷惑を…。」
「気にしないで。僕が好きでしてることだもの。」
恐縮する三郎に苦笑しつつ、お茶を勧めてくる。湯気の立つそれをそっと受け取り、伊作と同じようにズッと啜る。
甘い苦みが、三郎の体の緊張を和らげた。
「…おいしい。」
「そう?よかった。」
素直に感想を漏らす三郎に、伊作は嬉しそうに笑い自分もまた茶を啜った。
湯のみから口を離してもその顔は穏やかで、三郎は戸惑いの視線を上げる。
「…なにも、聞かないんですね。」
「うん?聞いてほしいのかい?」
「…いえ。」
「そう。」
伊作は本当に何も聞かないまま、静かにそこにいた。
その周囲に流れる空気に、今何故自分がここにいるのか忘れそうになる。
手の中の、温かな湯のみに再び口を付ける。
喉の中を熱いものが通っていく感覚を覚えながら、ぼんやりとここに至る経緯を辿ってみた。
(授業で審判をしていて。)
(雷蔵が、相手を怪我させたから医務室に行って。)
(でも、帰ってこなくて…。それから。)
(ええと。雷蔵を、医務室に迎えに行って。)
(そしたら、七松、先輩と雷蔵が真剣に話していたから、)
(……………話が終わるまで待っていようって、ただ、それだけのつもりで。)
『僕らが三郎を守ってきた。』
『僕は、認めない。』
『5年前から。』
『今までずっと同室でいたのに、気が付かないとでも?』
ズキンと胸が痛む。
雷蔵の秘密。私を守るために、貫き続けた嘘。
それを、私が知ったときの顔が。
脳裏に、甦って。
「あ………。」
(……私が、聞かなければ、)
きっとあのままでいられた。
(私が、七松先輩に惹かれなければ、)
雷蔵は今でも私の傍にいてくれた。
(私?)
(傍に?)
(ちがうだろう。)
(私が、)
(私が、居なければ、)
ワタシサエ、イナカッタラ…?
「やめなさい。」
「!!」
先ほどとはうって変わった厳しい声が三郎にかかる。
振りかえる三郎の顔を見る顔も厳しく、さっきまで茶を啜っていた人とは別人のようだ。
「自分を責めるのは止めなさい。居なければ、なんて。思ってもいけない。」
「せんぱい…。」
「辛いことがあったんだろう。悲しかったんだろう。でも、命を否定するな。」
なぜ、伊作が分かったのだろうか。なんて。
この穏やかな顔をした六年生がどれだけの修羅場を越えてきたかを思えば簡単に分かってしまって。三郎は顔を俯かせた。
その頭にそっと、暖かな手が乗る。
「確かに、命があるから、悲しいし辛い。人を傷つけることもあるし、傷ついてしまう。でも、でもね鉢屋。」
いつの間にか握られていた手ぬぐいでそっと顔を撫でられる。顔を触れられるのは大嫌いなのに、その暖かい手から逃げられない。
優しい手つきで目尻と頬を擦られて、涙をぬぐってくれたのだとわかった。
「でもね鉢屋。命があるから、君は人を好きになれた。」
「…………。」
「嬉しいのも、楽しいのも、君が命を持ってそこに存在しているからだ。」
「そんざい…。」
「そう。仲間が好きだろう?この学園の人たちが好きだろう?それに………不破や小平太も。」
「!!」
名前を聞くだけでさっと顔から血の気が引く。
傷つけてしまった、大切な人たち。
思わず体が逃げようと反応した。
「鉢屋。聞きなさい。」
「っ。」
伊作が三郎の顔を両手ではさんで、目を合わさせる。
まっすぐに見つめる目が強くて、大好きな人たちにそっくりで、その手を振り払うことも目を逸らすことも出来ないまま三郎はその黒い瞳を見つめた。
「過去は、取り戻せない。傷つけてしまったことも。傷ついてしまったことも。その命を持って生まれたことも。誰かを好きになったことだって、決して無かったことにはできない。だから」
そっと伊作が手を離しても、もう三郎は目を逸らすことはなかった。
「君は、君の思うように生きればいい。後悔するのもいい。反省するのも必要だ。だけど、止まってしまっては何もできなくなる。まずは考えろ。そして、最良の道を探せ。それが見つかるまで手を伸ばして足を動かし足掻き続けろ。」
「さいりょうの、みち…。」
呟く三郎の目は、もう死んでいない。
それを確認して、伊作はそっと三郎から離れた。
「偉そうな事を言ってしまって済まない。」
「いえ…。」
三郎は言われた言葉を噛み締めるように目を伏せ、立ちあがった。
「お世話になりました。」
「…このまま泊っていってもいいんだよ?」
「いいえ。」
立ち上がり、戸に手をかけた三郎は振り返りながら笑う。
「考え事は、一人のほうがいい。」
「…行ったか。」
「うん。」
仕切りの反対側。気配を消していた留三郎が顔を覗かせた。
伊作は頷きながら、三郎の出ていった戸を見つめる。
「相変わらず複雑そうだな鉢屋は。」
「そんなことないよ。大切な人のことで悩むのは、誰だって同じだもの。ただ…。」
「ただ?」
伊作は部屋に連れてくるまでの三郎の様子を思い出す。
ただ「らいぞう、らいぞう」と生気の無い目で呟き続ける姿は、見ていて痛々しいほどであった。目は現実のものを見つめておらず、周囲に感心を持つ様子も無く。ただ伊作にされるがままにいた三郎。
三郎の意識が、このまま戻らないのではないのかと思った。
このまま、人で無くなってしまうかと。
でも、三郎は強かった。
ちゃんと自力で戻ってきた。
そして、伊作が少し話せば理解し、前を向いた。
強い子だ。
でも。と再び伊作は心中で呟く。
でも、強い人も心配だ。
強い人は、自分を後回しにする。
それで耐えられると勘違いする。
同じ人なのに。耐えているだけで、傷は確かに大きく深いのに。それを無視する。
放っておけばそれは致命傷になる傷だというのに。
「あの子が選ぶ最良の道がどんなものになるか…。少し、心配だ。」
俯く級友に、留三郎は苦笑しながらぺしんと頭を軽くはたいた。
「阿呆。あんな偉そうな事言っておいてお前が悩んでどうする。」
「う〜〜。」
「お前は道を示した。あとは、鉢屋が選ばなきゃ意味がない。わかってんだろ?」
「そうだけど…。」
「大丈夫だ。後輩を信じてやれ。」
「…なんで留さんは大丈夫だって言いきれるのさ。」
「そんなもん。お前だって見ただろ。あいつの目は死んでない。」
「それが、根拠?」
「おう。」
「……………僕は僕で祈ることにするよ。」
「ほう?何を。」
「平和と、幸せを。」
あんなに傷ついて泣いているのに、大声も上げずただ痛みを受け止める姿は胸が痛む。
生き返った目は、傷つきながらも前を見ていた。しかしそれも、もう一度傷ついたら消えてしまうかもしれない。
そうなった人間だって、今まで何度も見てきた。
「どうか…幸せに。」
伊作の部屋を出た三郎は学園を出て、慣れた道を走っていた。
「……本当に、この学園はお節介な人間が多いな。」
そう憎まれ口を叩きながらも、三郎の目は涙で膜を張り、口は微笑んでいた。
雷蔵に嫌われたら狂うのだと思っていた。小平太から離れたら動けなくなると思った。
でも、三郎にそうさせない人間が、学園にはいた。
暗い淵から手を差し伸べてくれる人は一人じゃなかった。
いまだ心は痛むのに、三郎はそれが嬉しかった。
「伸ばして動いて足掻いて…最良を探してやるさ。」
三郎が確実に一人になれる場所は一つしか知らない。
小さな泉。
そこは常と変わらず、静かに水を湛えて存在していた。
三郎は常にするように服は脱がず、そのまま近くの木の根元に座る。
そっと目を閉じれば、周囲は慣れた森の空気に包まれていて、三郎の意識を冴えわたらせた。
ここでは、いつも一人だ。
三郎はふと微笑む。
この間、半ば自棄になって小平太に正体を見せたのがもう随分昔のようだ。
「共に、か…。」
雷蔵と共に生きていけるとは思っていなかった。
彼は大好きだけど、大好きだから離れなければいけないと思っていた。
――私は、化け物だから。
だから、今だけ。と甘えるような、祈るような気持ちで傍に居た。
学園を出たら、一人で生きていくのだと思っていた。否。父親の処に帰ることは可能だろうが、いつかは一人になる。ずっとそう思っていた。
『私はお前の傍に居たい!』
そう、言ってくれる人間がいるとは。
三郎にはまったく予想もしないことであった。
三郎の、何も隠しても偽ってもいない姿を、彼は『美しい』と言ってくれた。
嬉しかった。
人に、自分の存在を認めてもらえるのが、とても嬉しかった。
「ああ…でも、そうか。」
三郎はとっくに守られていたのだ。
雷蔵の、手によって。
「らいぞう……。」
優しい、雷蔵。いつも優しかった。傍にいてくれた。愛情を注いでくれた。
三郎がそれを受け取るとき、いつもどこか薄暗い気持ちがあった。
雷蔵は自分の正体を知らない。
だから、こんなに優しいのだと。思い込んでいた。
でも違った。
雷蔵の愛情はもっと大きかった。三郎のものとは、比べようもないほど。
『三郎。ずっと一緒にいようね。』
そう微笑む雷蔵は、どんな気持ちだっただろう。
『僕は、認めない。』
そう言った雷蔵は、どんな気持ちだっただろう。
雷蔵に、どうやって応えたらいいんだろう。
「雷蔵の思いも分からなかったのに…っ。」
いままで一緒だった五年間はなんだったのかと、自分が情けなくなる。
「…本当に、愚か者だな。わたしは。」
小平太とずっと一緒に生きていたい。
雷蔵の思いに応えたい。
考えるのはそんなことばかり。
…自分のことばかり。
本当に、彼らにどう応えたらいいのか分からない。
どれが、最良かなんて。
何が最良か、なんて。決まってる。
あの優しい二人が幸せになる道だ。
そして、みんなが傷つかずにすむ方法を。
小平太は、三郎の傍に居たいと言ってくれた。三郎の正体を知ってなお。
雷蔵は、それを認めないと言った。
あの、優しい彼が、顔を歪めて。そう言ったのだ。
「…雷蔵。」
思い出すとまた涙が浮かびそうになる。
雷蔵は、もう三郎に愛想を尽かしてしまったのだろうか。
あれだけ愛情を注いだのに、三郎は小平太を選んだから。だから、雷蔵は悲しい顔をするのだろうか。
きっと、それは真実だ。
でも。
もう三郎は小平太を選ばない、ということはできない。
雷蔵には愛想を尽かされてしまったかもしれない。それは身が引き裂かれるように辛い。
でもそれは、きっとしょうがないのだ。
三郎が、雷蔵を裏切ってしまったから。
「………らいぞぉ…。」
再び目から涙が零れる。
大切だった。愛していた。自分の片割れ。
ごめんね。
ごめんなさい。
謝るから。だから。
あなたから離れる私を許してください。
あなたから離れても生きていく私を許してください。
(ああでも消えるなら。せめて。)
大好きだと。
愛してると。
伝えなくては。
一番大切なことを。
もう。何もかも遅いだろうけど。
あとがき
まだシリアス。今後雷蔵編と小平太編をアップしていく上で修正するかもしれません。