双つの物語
生まれたときから――というわけではなかったけど、僕にとっては彼が隣にいることが当たり前で。
永遠に――というほどではないけど、これが続くと思っている。続けたいと思っている。
そのためならなんでもする覚悟はある。この目を、腕を、体を、顔を潰し、亡霊と化する覚悟もできている。彼が悲しみは僕の悲しみ、彼の幸せは僕の幸せだ。
でも彼は。僕の級友であり、親友であり、兄弟であり、半身であり、伴侶である彼は。
僕がそれだけ大切に思っていることなんて知らなかったんだ。
あの日。七松先輩に浚われた三郎がどんな会話をしていたのか、僕は知らない。
ただ彼が部屋に帰ってきたとき、泣きはらした目で幸せそうに笑っていた。
彼の涙の跡と笑顔。どちらに注目するべきか迷って、迷いながら三郎へ手を伸ばした。
いつものように三郎は素直にこちらへ身を預けてきて、僕もいつもするようにその体を抱きしめる。
「…どうしたの三郎?なにがあったの?」
結局どちらにも決めかねて曖昧に尋ねる。
「なんでもない…って言ったら怒るか?」
僕は首をかしげる。
「…怒りはしないけど…心配するよ。」
「うーん…そうか。でも雷蔵。ほんとに心配することはないんだよ。」
そう言って僕の胸から顔を上げる三郎の頬にはまだ涙の跡が残っている。僕の指で簡単に落ちるそれを三郎の目前に差し出せば、笑顔が苦笑に変わった。
「駄目そうだな…。」
「当然。君が嬉しそうだからいいけれど、もし本気で三郎を泣かしたのなら…僕はもうここにはいないよ。三郎。」
「ふふふ…私は愛されてるなぁ。」
「当たり前じゃない。」
また胸に顔を擦り付ける三郎を、愛しく感じるままに抱き締める。三郎はくぐもった声で「ふふふ。」と笑った。
「嬉しいな雷蔵。私はこんなに嬉しい日は初めてだ。」
「そうみたいだね。」
本当に、こんなに幸せそうな三郎は初めて見る。
その表情を作ったのが自分でないことに、少し胸に異物を感じるけれど、彼が幸せならば何も言うことは無い。
「よかったね。三郎。」
「うん。ありがとう。雷蔵。」
僕と同じ髪質の頭を撫でる。
三郎が帰ってくる場所はここだ。この、僕のいる処。嬉しい時も。悲しい時も。怒っている時も。何もない時も。彼はここに帰ってくる。
僕はそれで良かった。彼がすべてを語らなくても、ただ僕の隣で、僕へ帰ってくることが大切だった。彼の隣に居続けるために、僕は沈黙を選んだのだから。
次の日の昼。僕らはいつものように食堂に集まり、一緒に食事をとっていた。
僕の隣に三郎。正面には兵助、その隣にハチ。いつもの風景だ。
「久々知よー。お前また豆腐食ってんのか?たまには豆腐抜きの食いもの食べろよ。」
「ハチ。そう言うな。豆腐は久々知のアイデンティティなんだ。それを取ったら何が残る?」
「ああそうか!!ごめんな兵助。お前のアイデンティティを奪ってしまうところだった…。意識していなかったとはいえ、我ながら恐ろしいことをしてしまうところだったぜ…。」
「ハチ。三郎も。さすがに兵助に失礼だろう。ねぇ兵助。」
「……………。」
「兵助?」
「…………何も言い返せない…。」
「兵助!?大丈夫!?しっかりして!!ほら僕の豆腐あげるから元気出して!!」
「雷蔵。それは応援ではなく追い打ちだと思うぞ。」
「うん。俺もそう思う。雷蔵もなかなかやるなぁ。」
「ええ!?」
「いやいいんだ雷蔵。豆腐、ありがとうな。」
「兵助!?なんで涙ぐんでるの?」
「兵助。気にするな。雷蔵は天然だから。」
「三郎、それどういう意味だよ!」
「あーあ。今の絶対雷蔵が止め刺したよな。」
「だからハチ!!僕が何したっていうんだよ。」
「その通りだ雷蔵。そもそもの原因はこのアホ二人組だからな!!」
「兵助。箸を振り回すなよ。」
「そうだぞ。お行儀が悪いぞ。」
「お、ま、え、ら、なぁ〜〜!!」
「久々知くん!!食事中に席を立たない!!」
「はい!!すみません!!」
ビュンとおよそ杓文字が出すはずがない音を出して飛来する。兵助は間一髪で座ることでそれを避けるが、はらりと髪が何本か切れて落ちるのが、目の前に座る僕には見えた。
他の二人にも見えたのだろう、以来黙って僕らは残りの食事をかきこんだ。
「「「「ごちそうさまでした!」」」」
四人で手を合わせて、兵助の背後に刺さったままの杓文字を抜き取る。食事の乗った盆と杓文字をおばちゃんに返すと、「もう食事中にあんまり遊んじゃだめよ。」と笑われてしまった。そろって顔をひきつらせながら笑って返し、僕らは食堂を後にした。
「あー怖かった!!まじ怖かった!!」
「おばちゃん最強伝説の一端を垣間見たな…。よかったな兵助!無事で!」
「だから、もとはといえばお前らのせいなんだが…!?」
「もう…やめなって三人とも。」
僕らはいつもこうだった。
三郎とハチが兵助をからかい、僕が止める。僕と兵助が逆の時もあるし、からかう対象がハチの時もあったりするけど、おおむね僕らはこんな感じで友情を育んでいた。
残された時間はあと二年もない。そんなことはみんな分かっている。
だからこそ、僕らは変わらなかった。
変わることを、望まなかった。
だれとして、望んでいなかったはずだった。
「おっ三郎!!」
「え?あ。七松先輩?」
廊下で暴君と呼ばれる先輩がやってきた。傍には僕の所属する委員会の委員長、中在家先輩もいる。
しかし、いつもなら笑顔で会釈し挨拶する僕も、呟かずにはいられなかった。凝視せずにいられなかった。
「………『三郎』?」
三郎は僕以外には見せたことのない顔で笑っている。穏やかな、安心しきったような顔。
親しげに呼ぶ声も。嬉しそうな目も。その顔も。僕以外に見せたことなどなかったのに。
「…雷蔵。」
肩に手を置かれる。見なくてもわかる。大きくていかつい。そして温かい、ハチの手だ。
「三郎って、あんなに七松先輩と仲よかったか?」
「…知らない。」
本当に、知らなかった。彼はいつの間に僕以外にあんな顔をするようになったのだろう。ハチが相手ならまだよかった。兵助が相手でも。三郎のお気に入りの、委員会の後輩たちが相手でもまだ理解しえただろう(そんなことはほとんどあり得ないけれど!
)。
なぜ、七松先輩なのだろう。
委員会でつながりがあるわけでもない。
クラスがろ組同士だからといっても組分けで合同授業があるわけでもない。
三郎の近づくのを好みそうなタイプでもない。
…なぜ。そんな顔をするんだ、三郎。お前は…、
「…いぞう。雷蔵。」
「えっ?」
「顔。怖くなってるぞ。」
兵助の綺麗な形の指が僕の頬をつついた。
僕はおそらく、殺気すら出していたかもしれない。兵助が心配そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。
「…ん。ありがとう。もう、大丈夫。」
「そうか。よかった。」
苦心して微笑めば、兵助も安心したように笑った。
そして、また三郎へ視線を戻す。
「そういえば、先輩たち随分遅い昼食ですね。」
「ああ!さっき実習でちょっとやりすぎてしまってな!今まで簡単な修理をしていたんだ!」
「それは…。自業自得ですね。」
「まぁ、あとの大きい穴や壊れた壁は食満が直すから!」
「そんなこと言って…。また食満先輩に追いかけられることになりますよ。」
「私は負けないさ!」
「まぁ、そうかもしれませんが…。」
「…小平太。」
「ん?あ!もう行かねば!飯が無くなってしまうな!」
「ああそうですね。お引き留めしてすみません。」
「なに!三郎ならいつでも私を呼べばいい!!いつでも駆けつけるから!!」
「…そうします。」
そのとき駆けださなかった自分を、とても褒めてやりたい。
しかし声までは抑えきれず、僕は鋭く三郎を呼んだ。
「三郎っ!」
「え?あ!雷蔵?何?」
「…僕らももう行こう。次は実習だから準備しなければ。君も、学級委員長の仕事があるだろう?」
「ああそうだった!それでは七松先輩。また。」
「ああまたな!」
七松先輩は笑って、食堂へ足を向けた。自然、僕らとはすれ違うこととなる。そして僕は見た。
(…笑った!?)
かっと頭に血が上る。袖の中の苦無を取り出し襲いかかろうと身構えた僕を止めたのは、大きな手と繊細な手の二つだった。
「雷蔵。行こう。」
よほど険しい顔をしていたのだろう。心配気な顔で二人が僕を見つめる。その手はきつく僕の両腕を握って離さない。
「雷蔵。」
ハチがもう一度、僕の目を見つめながら名前を呼ぶ。
僕は何度か深呼吸をして、苦無を再びしまう。もう一度大きく息を吸い、吐けば、気持ちは大分落ち着いた。
「…ごめん。」
「いや。」
「大丈夫か?」
「うん。もう平気。」
気持ちが落ち着いたとたん、後悔が押し寄せる。二人に迷惑をかけたこともそうだが、三郎は、今の僕の行動を見てどう思ったろう?
おそるおそる振り向き、三郎の顔を見ると、彼はきょとんとした表情で僕を見つめていた。
(うわああああ。穴があったら入りたい…!!)
「雷蔵?いきなりどうしたんだ?」
「ああ…えーと。」
七松先輩に嫉妬したとは言いづらい。僕だって散々中在家先輩や後輩たちに嫉妬する三郎を諌めたりするのに、その自分がこの失態。本当に、穴があったら入りたい。
「ええと、ね。」
「うん。」
三郎は、僕の言葉を待っている。きょとんとした、僕の顔のままで。背後でハチと兵助が苦笑している雰囲気がする。…今度は助けてくれないらしい。
僕が答えあぐねているのを、どこからか神が見て憐れんだか、僕の日ごろの行いが良いためか。救いの鐘の音が構内に響いた。
「あ!授業が!!」
「やっべぇ!急げ!!」
「うん!!じゃあね兵助!!」
「おう。居残りになったら夕食取っておいてやるよ。」
「悪い兵助!」
「感謝!」
そして僕らは窓枠を越えて集合場所の中庭へ飛び出した。