夜の色
りりり…と虫の音が痛いほど耳に響く。しかしここは彼らの縄張りなのだから文句は言えない。
三郎は俯き、足下に広がる水を見下ろす。
暗い、暗い色はまるで大嫌いな赤色にも見えて。顔をしかめて三郎はすぐに顔を上げた。
月の無い夜は空と地面(した)の境界が曖昧だ。
誤って暗い水に足が触れないよう、そろりそろりと足を進める。
学園からそう遠くはないこの湖は、流れる音もなく、魚の跳ねる音もなく、静かにただそこに佇んでいる。
三郎は、ゆっくりとその淵をなぞるように足を進めた。
「…月が、見たかったんだがなぁ。」
ぽつりとつぶやく声に返す言葉はない。
静かな、こんな夜に輝く月はさぞかし美しいだろうと、わざわざ気配を消して出てきたにも関わらず、今宵は月が見えない。
小さくため息を吐いて、軽い動作で飛び上がる。
一瞬後に木の太い枝に到達した体は次々に飛び上がり、ほんの数瞬の間に天辺までたどり着いてしまった。
「……上に上っても見えるわけじゃなし、か。」
空には塵のような星が瞬くのみ。それはそれで美しいのかもしれないが、三郎が求めるのはもっと強烈な光だった。
人によっては狂うほどの、その光を浴びてみたかった。
それなのに、下を見ればどんよりした巨大な穴があるだけ。
そこに飛び込んでいけば、地面の反対側を抜けてあの月に出会えるのだろうかと、そんな妄想をさせる水の固まりがそこにはあった。
「…あーあ。馬鹿馬鹿しい。そうは思わんか兵助。」
「なんだ。ばれてたのか。」
背後からひょっこり現れた見慣れた顔に、三郎がニヤリと笑う。
「この天才鉢屋三郎様がわからない訳あるまい?」
「…そこは恋人の気配ならすぐわかるとか言ってほしいな。」
「…ばーか。」
こんな明かりの無い夜では互いの顔など見えない。それでよかったと、三郎は熱くなった顔で内心つぶやく。
「それで?なにが馬鹿馬鹿しいんだ?」
「あ?んー。…さて。なんだったかな。」
「おい。」
「まぁ気にするな。たいしたことじゃない。…兵助は鍛錬か。さすがい組の秀才。まじめだねぇ。」
「そういう言い方やめろ。年にそうは無い機会だし。自分ができることをしたいだけだ。」
「仕事でもないのに、夜に動き回る気がしれないね。」
そこで、兵助はふと頭上の顔を見る。
太い枝に腰を下ろし、空を見上げている顔は見えないが、心なしか残念そうだ。
「…どうした?」
「夜は嫌いだよ。」
雷蔵と離れなければならない。睡眠をとっているときは一人だ。それに、嫌な仕事はたいてい夜に行われる。
「…大嫌いだ。」
見下ろす、己の恋人も同化して見えなくなる。
この夜の色に近い男は、さらにその色に同化しようとしている。
「…月が出てればよかったのに。」
「なんでだ?」
最後に、小さくこぼれ出た言葉を、兵助が拾う。
その声に向かって三郎は手を伸ばしたが、空を彷徨うだけに終わった。
「月は、暗闇を消すだろう?あの清浄で強い光は、私を一人にしない。」
「…俺だって一人にしないさ。」
「…どうだか。…今だって、こうして夜に溶けて私の前に現れないでいる。…実は私は一人でしゃべっているかのような錯覚にさえ陥る。」
彷徨った手はすでにあきらめたように力無く三郎の体に置かれていた。
「三郎。」
「え?ってぇええ!!!?」
枝から飛び上がった兵助がその手を思い切り握り、そしてそのまま重力に従って宙に体を任す。
瞬き一つしている間に、二人は地面へ危なげなく降り立った。
だが危なげなかったのは体だけで、三郎は突然の落下に冷や汗を流していた。
「っばっかやろう!!!危ないだろうが!!!」
「ここにいたろ?」
「は?」
「俺が。久々知兵助が、ここにいただろう?」
相変わらずこの闇では顔が見えない。だが、それはもうご機嫌にニコニコと笑っているのは何となくわかる。
「…馬鹿じゃねぇの?」
「い組の秀才に向かって何を言う。ならもう一つ馬鹿を言おうか。」
「は?」
「俺が夜と同化したなら。三郎のそばにある夜は俺自身だ。」
「………は?」
なにを言い出すのかと三郎は顔をひきつらせながら気の抜けた言葉を返す。
「ここにいるこの俺が、夜と同化したというのなら。俺は三郎がどこにいたとしてもその隣にいるんだ。」
だって俺が夜なんだから。
自信満々にそう言い切る兵助を、三郎はぽかんと見つめた。
その途方もなく限りなく際限のないその虚言に。
「ばっかじゃねぇの!!」
そう言いながら、呆れたような声を出しながら。
三郎はうれしそうにその夜色の体に飛びついた。
「馬鹿だ。あー馬鹿だ!!」
「…どーせ。馬鹿でいいさ。」
その言葉にまた珍しく三郎があははは!!と声を上げて笑って、抱きしめたその男の唇に勢いよく噛みついた。
「その馬鹿な言葉が、心底うれしい私も大馬鹿者だ!!!」
その言葉にまだ三郎が腹を抱えて笑い転げているにも関わらず。兵助が震える体を抱えて持ち帰ったのは言うまでもない。
あとがき
こういう臭い科白は久々知より竹谷の方が似合いそうだと思いつつも敢えて兵助で!!
お…とこまえ?(←疑問形になるな。)