涙の人形

――この鬼子が!!
―――不吉な子供!
――姿を現すな!!
―――声を聞かせるな!
――消え失せてしまえ!!!


「あー………。」
懐かしい、夢を見た。
忘れていた。そういえばそんなこともあった。
むくり、と闇の中三郎は起き上がった。隣で寝ている雷蔵が起きる様子はない。
ふぅ、とため息を吐く。そのとき、ぽたりと小さな雫の零れる音。
「あ?」
ぽた、ぽたり。
瞬くとさらに布団に染みが増えていく。慌てて三郎が目を擦ると、拭った手の甲に濡れた感触がする。驚いて、雫の付いたそれをじっと見つめて呆けてしまった。
久しぶりに見た。
「涙なんか…まだ流せたんだな…。」
罵声の主の顔は覚えていない。
いつ言われた言葉かも覚えていない。
心がひどく痛んだことも。
忘れたことだ。
過去は、忘れることができる。
「…………忘れろ。」
小さく、自分に命令する。
そして目を閉じて布団に戻ってしまえば、全てが元通りになる。胸が痛いときはいつもこうしていたから。
三郎はそう言い聞かせながら、元通りに就寝についた。


「雷蔵。おはよう。」
「うん。おはよう三郎。」
いつも通りの朝。
雷蔵の笑顔は人を安心させる力があると思う。三郎はそんなことを考えながら、幸せな気持ちで雷蔵の隣へ立つ。


『幸せ?』


刹那、ぞわりと背筋に氷が這うような悪寒を感じた。
「三郎?どうしたの?」
「…なんでもない。」
にこり、と微笑めば、雷蔵は本当に?と心配そうな顔で三郎の顔を覗きこむ。
「本当だよ。なんでもない。」
「…心配するから、あんまり無理をしちゃいけないよ。」
「うん。わかった。」
頷く三郎に、雷蔵も疑問を持ちながら頷く。
食堂まで二人は終始無言であったが、時間が経つにつれ通常の空気へ戻っていった。
(なんだったんだ…?)
三郎は一人、内心で疑問に思いながら、それでも繰り返された日常にそれを忘れてしまった。そんな些細なことであったのだ。


「さぶろー。休むんなら部屋に戻りなよー。図書室は休むところじゃないよー。」
「んー…。」
放課後になっても三郎はいつものように図書室まで雷蔵にくっついて行った。別段図書室ですることも無い三郎はすっかり寝の体勢だ。雷蔵が呆れながら肩を揺すって起こそうとするものの、なにやら呻くだけで起きる気配がない
「まったくもう…。」
しかし騒いでいないだけ普段よりましではある。いつもなら「雷蔵雷蔵」と騒いでしょうがないのだ。それで中在家に怒られるのもなぜか雷蔵も一緒なので、まぁ、それに比べれば静かにしているだけいいだろう。
そう結論づけて雷蔵は委員会活動へ戻った。

『ねぇ幸せ?』
『あなたは幸せ?』
――うるさい。
『ねぇ幸せ?』
『あなたは幸せ?』
――幸せだよ。
『じゃあ――。』


なぜ、泣いているの?


「―――ッ!!!」
ガバッと勢いよく起き上がる。そしてすぐに自分の頬や目尻に手をやった。
(…泣いてなんかいないじゃないか。)
ほぅ、と息を吐いて激しく脈打つ心臓を落ち着かせる。
そしてきょろ、と回りを見渡すと、辺りはすっかり暗くなっていた。図書室の活動時間も終わってしまったのだろう。灯りすら落とされている。
「…らいぞう?」
真っ先に、心を占めるのは相方の姿。しかし見渡しても雷蔵の姿はどこにもない。
焦燥とともに三郎は立ちあがり、「雷蔵?雷蔵!」と室内を探しだす。小さな子供が母を求めるように、必死にその姿を探す。
「……………。」
図書室に、雷蔵の姿は無かった。
いまだに焦燥が冷めず、三郎は図書室を飛び出した。
外は遠くが藍色に中天が闇に染まっている。日が落ちてそうは経っていないようだ。
ならば、食堂だろうか?
三郎は辺りを見渡しながら食堂へ足を進める。
(雷蔵が、私を置いていくわけがない。)
(きっとなにかどうしようもない理由があったのかも知れない。)
(だって雷蔵が私を置いていくわけがないんだから。)
(他の何を置いたって、私を…。)
そして見つけた、視線の先の明るい髪。
「っらいぞ」
「心配するから、あんまり無理をしちゃいけないよ。」
「はーい。」
「まったく…。どうして僕の周りにはこう無理をするやつが多いのかね?」
「誰のことっすか?」
「三郎だよ。君といい三郎といい。まったく世話が焼けるったら。」
「ははは。三郎先輩と同類っすか。」
「そうだよ。君だって、僕の大事な人なんだからね。」
その先を、三郎は知らない。


気が付けば、学園の外の深い森で一人佇んでいた。
「…………………。」
はぁはぁ、と息が荒い。足は微かに震え、時折ぶつけたらしい腕も痛い。
しかし三郎は、自分がどうやって此処まで来たのかまったく覚えていなかった。
ただ、さっきの雷蔵の言葉が頭を巡る。
「………私は、『とくべつ』が良かったよ。らいぞう…。」
一字一句違わず、同じ優しい言葉が、自分以外の人に向けられていた。
「『おなじ』愛はいらないよ…。」
庇護愛
親愛
友愛
どれであってもかまわなかった。ただ、『とくべつ』が良かった。
「……………………胸が、痛い。」
頬を、かつてと同じ雫が流れる。
拭う手もなく、ただ静かに流れる。
行き場の無く、溢れる思いを流すようにただ、流れて地に落ちる。
「……………………忘れろ。」
静かに目を閉じる。
ただ、忘れろと自分に命令して、目を閉じる。
期待も。
答えも。
意味の無いものだから。
「………忘れろ。」
それでも、雫は止まらないけれど。


「三郎!?どこに行っていたの!?探したんだよ!?」
「ごめん。ちょっと野暮用に行ってた。」
「野暮用?って何?」
「……………。」
三郎は答えず、にこりと笑った。
雷蔵はきょとりとその笑顔を見つめる。しかし、優秀な三郎が自分に言えないこと、たとえば任務に行ったり用事をするのはたまにあることだ。
聞いてはいけないことなのだと、雷蔵その話題を終わらせるように「じゃあ、食堂に行こう?」と三郎の肩を叩こうとする。
しかし。
すっと、一歩足を進めた三郎の身体に触れることは叶わず、そのまま手を止めた。
「…三郎?」
「ん?どうした雷蔵。食堂に行くんだろう?」
「う、ん…。」
いつもと同じ笑顔の三郎に、気のせいか、と雷蔵は小さく頷いた。
食堂では、やはり三郎はいつも通りだった。
嬉しそうに好物を食べ、食事中の他の生徒にちょっかいを出して、それを雷蔵に怒られて。
それでも、雷蔵は心のどこかでその三郎に疑問を持っていた。


「おかしいって…何が?」
「それがよくわかんないんだってば…。」
竹谷と兵助に相談しても、二人は何の違和感も無いという。それに雷蔵は憮然としながらも弱々しく反論した。
「なんか…いつもと同じなんだけど。なんか違う。」
「…いつもと同じなんだろ?」
「だからなんか違うんだってば!!」
「俺等に怒られたってわかんねぇよ。三郎のこと、一番知ってるのは雷蔵だろ?」
「う〜〜〜〜。」
そのはず、なのだが。
呻きながら雷蔵は脳内で違和感の原因を探す。
そのとき、三人のいる竹谷の部屋の戸がスラリと開けられた。
「なんだ。みんな此処に居たのか。」
「よう、三郎。」
「おう。」
遠慮なく三郎も部屋に入って三人に加わる。その仕草も態度も、いつもと確かに変わらないのに。
雷蔵はじっと三郎を見つめた。
「…何?雷蔵。」
視線に気が付いた三郎が、にこり、と雷蔵に微笑む。
(あ…。)
その笑顔に、雷蔵の意識に何かの感覚が引っかかる。
「………三郎。」
「ん?」
「…僕のこと好き?」
隣で竹谷と兵助がお茶をぶっと吹いている。しかし雷蔵も三郎もそちらを気にすることなく見つめあった。
「…『好きだよ』?」
その言葉に、表情に、雷蔵が目を見開く。
(ああ…そうか。)
言葉に、力が無い。
目が、笑っていない。
「っ三郎。」
「『なに?』」
色の無い言葉。動きの無い表情。作り物のように。
「どうしたんだよお前!」
「『どうもしないよ?どうしたの雷蔵?』」
(届かないっ!)
空振りするような感覚。雷蔵の言葉が、三郎には届いていない。
「三郎!!」
「『変な雷蔵?私は、いつもと変わらないだろう?』」
「三郎!どうして!?」
ただ言葉を紡ぐ三郎に、雷蔵が掴みかかる。そのまま揺さぶられても、三郎の顔は変わらなかった。
なぜ?
なぜ!
雷蔵が三郎を責め立てる。
「そんなんじゃお前は、幸せじゃないはずだ!!」



―――胸が痛い。
三郎の胸を掴む雷蔵が、遠い幻のようだ。
これが真実?
やはり幻なのかもしれない。
愛したかった。
誰よりも大切に守って幸せにしたかった。
愛されたかった。
雷蔵の暖かな愛情が欲しかったよ。
ああでもごめん雷蔵。
私は、忘れてしまった。
あの時の胸の傷と一緒に、愛し方を忘れてしまった。愛され方を忘れてしまった。
だから、雷蔵が今目の前にいるのに、何もできない。
ごめん。
ごめんね。
だから、
「そんなんじゃお前は、幸せじゃないはずだ!!」
だから、これ以上私を壊さないで。


ポロポロと三郎の目から雫が零れるのを雷蔵は驚いて見つめた。
「『なに?雷蔵。どうしたの?』」
「どうしたって…お前。」
気が付いていないのか?
雷蔵はそっと冷たい雫の流れる頬に手を伸ばした。
つぅ、と雫が雷蔵の指へ移る。
三郎はやはり人形のような瞳でそれを見つめていた。拭っても拭っても溢れてくるその雫に雷蔵の顔が歪む。
「三郎……。」
「『雷蔵。大丈夫だよ。』」
にこり、と微笑む顔はいつもと同じなのに。
雷蔵は堪らなくなって、三郎の身体をかき抱いた。
「何が大丈夫だよっ!!こんなっ、こんな…。どうしてっ!?」
「『その内止まるから。』」
「…!!」
その言葉にバッと身体を離す。そして見つめた顔は、やはり穏やかに微笑んだまま雫が流れていた。
「〜〜〜この馬鹿!!それじゃあ意味無いだろう!?」
「『意味?』」
三郎が、初めてヒクリ、と身体を震わせた。
「そんなの、最初から無い。」
「!?さぶろ…」
「『大丈夫だよ雷蔵。どこかが痛いわけではないんだ。だから、その内止まる。』」
二コリ、と笑う人形の顔。
しかし雷蔵は確かに、一瞬絶望に歪む『三郎』の表情(かお)を見た。
「…嘘付くなよ。痛くないはずないだろう?」
「『本当だよ。雷蔵。私はどこも痛くないんだ。』」
「…お前の嘘を、僕が分からないと思うのか?」
「『…………。』」
「ここが、痛いんだろう?」
そっと、指先で三郎の胸に触れる。
それに三郎の目が見開かれる。
「…『ちが』」
「違わない。お前の嘘は分かるって言っただろう。」
「『……………。』」
「時間はかかったかもしれなけど。僕は君のことなら分かるんだ。」
「…どうして?」
純粋に、本当に分からないと言ったように三郎が問う。それに雷蔵もまた、哀しそうな顔で微笑んだ。
「だって、お前は私の『特別』な人だもの。」



どうして。
どうして雷蔵はこうなんだろう。
閉ざして隠して奥にしまって偽物まで表に出したのに。
雷蔵は私の「ホントウ」を見つけてしまった。
私の欲しいモノを見つけてしまった。
どうして。
ねぇ、雷蔵。
私はまだ期待していいの?
私はまだ意味を持てるの?
忘れてしまったことを、元に戻すことが出来るの?
ねぇ、雷蔵。



「………いたい、んだ。」
「うん。」
「わたしは、もうひとり、だから。わすれようとしたんだ。」
「お前は一人じゃないよ。」
「でも、むねがいたいんだ。」
「うん。それはね。」
ぎゅう、と雷蔵が三郎を抱きしめる。
「ほら、こうしていれば、痛く無くなるだろう?」
三郎の耳に、雷蔵の胸の音が響く。
「…っひ、っく、…ふ、ぅ、えっく、」
「よしよし。辛かったね。ごめんね。気付くのが遅くなって。もう大丈夫だからね。」
嗚咽を漏らしながら腕の中で泣く三郎を、雷蔵の腕が優しく撫でる。
「お前は一人じゃない。愛しているから、だからもう自分を偽るのは止めてくれ。泣きたい時は素直に泣けばいいんだ。痛みも、忘れてしまうんじゃなくて、僕を頼ってくれ。胸の痛みならなおさら。三郎が一人で苦しんでいるのは、僕も辛い。」
「う…ん、」
「約束だからね。」
三郎の流す「涙」を愛おしく思いながら、雷蔵は三郎が眠るまでその背を撫で続けた。


『あなたは、幸せ?』
――幸せだよ。
『なぜ、泣いているの?』
――幸せだから。

あとがき
ミクの「モノクロ/アクト」の歌詞を見て三郎に当てはめたらものすごく滾ったので、一気書き。
でもハッピーエンドにしたくて100%トレスはできませんでした。
三郎の「涙」は感情が伴わなければただの「雫」だというのはちょっとしたこだわりです。
竹谷と久々知はきっと途中で気を利かせて出ていったんです;;

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