今はまだ。
大体この家が静かな時は碌な事がない。
いつものように母の作ったおかずを持ったまま、俺は自分の顔が顰められるのが分かった。
「…今日はなんだ?」
腹が空いて倒れているだけならまだいい。
以前のように過労で倒れるとか。
器用でも無いくせに何かにチャレンジしようとして血だらけになって失神してるとか。そんなことでなければ。
この家が静かだと本当に、碌なことがない。
足早に裏口から入りながらまずは室内から確認する。
「…せんせー。めしー。」
一応声を掛けるが、返答は無し。
遠慮なく縁側から中に入る。とたんに、墨の匂いが漂ってきた。書道を好きだと思ったことはないが、この匂いは嫌いじゃない。
持ってきたおかずを机に置き、俺はその匂いが強烈な部屋へ足を進めた。
「せんせー。」
「……………………。」
だめだこりゃ。
戸を開けて早々、ため息を吐いた。
がっつり集中してる先生は、今は何を言っても聞こえないだろう。
しゅるり、さらりと筆が半紙をなぞる音。それから微かに聞こえる衣擦れの音。
それだけの静かな世界に入り込んでしまっている。
俺はそこに座りこんで、なんとなくその姿をじっと見つめてみる。
黒い甚平に頭にはタオル。いつものおっさんのような姿だ。しかし顔はイケメンである。
この顔を見ていると、特に世の中不公平だなどと腐りたくもなるもんだが。
「せんせー。飯食わないとまた倒れるぞー。」
「……………。」
当然、返事はない。
怒りを通り越して呆れる。だがそれにすら気づくことなく集中している姿に、これは内緒だが憧れもする。
だから、すぐに無理やりそこから引き離すことが出来ない。
「あー…もう。」
この世話好きは親譲りだ。そうに違いない。
でなければ親父は郷長なんぞやっていないし、母親も見知らぬ若い男の食事の世話なんかするもんか。
この俺だって。
「血のなせる業だっつーの…。」
シャカシャカ米を研ぐ音をさせながら呟くのも、なんだか空しい…。
炊飯器にセットして焚き上がるのを待つ間、俺はさっきの部屋へ戻った。
米が炊ける音がしたらすぐにそこから引きはがすためにスタンバイするのだ。
戻った部屋ではやはり、いまだに筆を走らせ続ける先生の姿。
一枚書き終わったと思えばぞんざいにその紙を避け、またすぐに別の紙を取りそこに筆を走らせ、そしてまた新しい紙を取る。
時折俺の足にも紙が当たるが、それに気づく様子もない。
その目は、ずっと紙に釘付けであった。
普段のこの男の目は鋭くはない。むしろ優しく穏やかな気質であると言える。子供が苦手だというが、なるたちの相手もよくしてくれているしなるも懐いてる。
だが、今の目はまるで紙を通して床を視線で刺さんばかりだ。
『せんせーはなー。』
ふと、なるの言葉を思い出した。
『せんせーは、字を書いてるとどっかいっちゃうんだ。』
『はぁ?』
『なるがなんか言っても聞こえて無いし、なるがおーいって手を振っても見えないだ。』
『そりゃ無視してんだろうがよ。なんだあの先生。意外と感じ悪いなっていってぇ!!!』
『せんせーの悪口いうな!!』
『ほんとのことだろが!!』
『せんせーはどっか行ってるから見えてないだけなんだ!!ちゃんと帰ってきたらごめんなって言うんだぞ!!』
その時は子供を無視するなんて大人げないと思ったもんだが、なるの言うことが本当だというのはすぐに分かった。
ああ、こういうのをイっちゃってるっていうだな…と。初めて知った18の夏である。
知りあってからというもの、この書道のことしか頭に無い先生が心配でたまらないのもしょうがない。
なんて言ったって本当に倒れてしまうのだ。その現場に何度居合わせたか知れない。知り合ってから一月も経っていないというのに。
「そんなに楽しいのかねぇ…?」
食事も睡眠も忘れるほどに。
この男は墨と紙の芸術に溺れている。頭の先まで溺れ切って、周りを見ていない。
そこまで溺れるものを、俺は持っていない。
「……………先生さぁ。」
その続きは何を言おうとしたのか。
俺の言葉は背後からのすさまじい電子音によって遮られた。
思いのほか大きな音に体が驚きに震えてしまった。
「あーびっくりした…。」
「……………あ。ヒロ?」
バクバクと跳ねる心臓を抑えながら立ち上がったその横で、低い声がする。
振り向けば、今まで紙を睨みつけていた目がきょとん、と丸く広がって俺を見上げていた。
「よう先生。お帰り。」
「?…あー。ただいま。」
ニヤリと笑いながらの俺の言葉に一瞬分からないような顔をしたものの、すぐに思い至ったのか、照れくさそうに言葉を返す。
「悪いな来てくれてたのに。」
「なに。筆持った先生がどっか行っちまうのはいつものことだろ。気にすんな。」
俺はいまだにピーピーがなりたてる炊飯器に向かい、その音を止める。
さて茶碗を、と振り向くと、すぐ目の前に墨の匂いをさせた先生が俺を覗きこんでいた。
「うおっ!?」と情けない声が出てしまい、照れ混じりに「なんだよ!!」と怒鳴ってようやくその体が離れる。ふわりと薫った墨の匂いになぜか頭の奥がちりちりした。
「メシまで焚いてくれたんだな。」
「ただの暇つぶしだよ!!」
「そうか。助かった。ありがとう。」
まっすぐに目を見ながら微笑まれて、いつもよりすこし幼く見える顔に、俺の体が硬直したように動けなくなる。
こ、この…。
「ヒロ?」
「帰る!!」
「え?あ。ああ…。」
戸惑いながら頷く先生の前を横切り、俺は早足で縁側の自分の靴を履いて裏口から出る。
早足は駆け足になり、やがて全力疾走になり。
「だぁぁぁぁあ!!ちくしょう!!」
なんだこれは!!
なんだこれは!!!!
心配して、こっちを見てほしくて、見てもらって、笑いかけられて、それで。
「喜んでんじゃねーよ俺ぇぇぇ!!!!」
顔が熱い。
大体あいつは大人のくせに食べ物をくれるやつに無防備過ぎる!!子供か!!
あんな、あんな無邪気な顔して喜んで、
「あああああ!!だからぁぁぁぁ!!!」
これ以上考えるな俺!!!
どっか変な思考になるから!!
今ならまだ間に合う!!!
何にどう間に合うのかは考えない。
真っ赤な顔をして息も絶え絶えに帰宅した息子を、両親はやはり微笑まし気に見つめているのが妙に腹が立った。
あとがき
「ばらかも/ん」に嵌まって読んだ当日勢いで書き上げた(^p^)
やばいかわいいよ23歳書道家…!!!そして世話焼きな18歳にも萌える…。