僕らの役割






独特の匂いのするこの部屋は、馴染みはあるものの慣れているとは言い難い。

だがその部屋の主はそっと雷蔵の手を取り、その手を見つめた。
「ああ。少し深いね。でも筋は傷ついていない。大丈夫。すぐよくなるよ。」
「そうですか。」
「っく、えっ…っう。」
その言葉に雷蔵は少し肩の力を抜いた。
手の甲に走った裂傷は確かに痛むが、泣きごとを洩らすようなことは言わない。
伊作はそれに微笑んで薬棚をいくつか開き、その中身をさらに手元の道具で調合する。そして出来あがった物は、何やら眉を顰めるほどの匂いを発する粘土のような色の塗り薬だ。
雷蔵は寄せた眉のままに伊作を見上げ、問うような視線を投げた。
「大丈夫だよ。これは実験用じゃないから。」
「…………………。」
「ひっっく、…ぅっく」
信用できない。が。今はこの治療を受けるしかない。
雷蔵はため息を吐いて手を伊作へ預けた。
その薬が塗られる瞬間。ヒヤリとした空気を足元に感じた。
「もう泣くのはいいのかい?」
「………雷蔵に、なんかしたらこのまま首掻っ切る。」
雷蔵の隣でずっと嗚咽を零し泣いていた三郎は、目を真っ赤にして流れたままの涙も拭わず、伊作の背後からその首に苦無を当てている。
空気を冷やす殺気を殺すこともせずに、三郎は至って冷静にその手に力を込めた。
だが相手も六年。しかも癖のあることで有名な伊作である。
首筋のものが自分の命を奪うことを百も承知で微笑んでいた。
「これは新野先生直伝の傷薬だ。危険なことは何もないよ。」
「………なら先に私に使え。」
「は?」
しかしさしもの伊作も、三郎の思考までは考えつかなかったらしい。
目の前に現れた白い腕に、己に向けられた苦無が向かうのを、ただ目を見開き見つめていた。
「っ鉢屋!」
「!!!」
鋭い切っ先が、白い肌に刺さった瞬間。
切っ先はそれ以上動かなくなった。
「…雷蔵。」
「この馬鹿。あんまり伊作先輩を困らせるんじゃないよ。」
血に染まった手でもって三郎の手を止めた雷蔵は、彼にしては珍しく鋭い眼光で三郎を睨む。
三郎はそれにひっと息を飲むと、先ほどまでの殺気はどこへやらか霧散させ、また目に涙を盛り上げて嗚咽を零し始めた。
「伊作先輩。この馬鹿は放っておいて。治療をお願いします。」
「いいのかい?」
「構いません。」
どっしりと上げた腰を元に戻し、雷蔵は再び手を伊作へ差し出す。
邪魔の無くなった伊作は手早くその手に薬を塗り、包帯を巻いて治療を終えた。
「はいお終い。しばらくお湯につけちゃいけないよ。」
「ありがとうございます。」
「………ありがとうございます。」
雷蔵が痛んでいない手を付いて礼をすれば、三郎も不承不承とだがそれに倣う。
伊作はそれに微笑んで、「お大事に。」と頷いた。


「らいぞー……。」
「…………………。」
「なぁらいぞー……………。」
その帰り道。三郎が話しかけても雷蔵は振り向かず、相槌も打たない。
三郎はまた泣きそうになるのをぐっと唇を噛んで堪えた。
自分が悪いのだ。
実習の最中、それも混戦の真っ最中だった。
三郎と雷蔵は互いが離れることをしない。それを逆手にとられた。
刀を振るう二人目がけ、煙幕を投げつけられた。
通常ならば退却し、視界の利く場所で再び戦闘を行うべきだ。だが三郎は向けられた殺気に容赦なく刀を振るう。
悲鳴の後、ギィッンと嫌な音が三郎の耳に届いた。反射的にはじいた得物が敵の手から離れて飛んだようだった。
だがその直後、「グァッ」と短く聞こえた悲鳴に、三郎の顔から血の気が消える。
時間にして五分もしない時間。ようやく晴れた煙幕の先で三郎は雷蔵の手から流れる血に目を奪われていた。
普段ならそんなヘマはしない。雷蔵がどこにいるか常に気に掛け、雷蔵が一番動きやすいようにするのが三郎の仕事だ。
だが。
三郎はそれをこなせなかった。ただ、視界が悪かったという理由で。
「ぃぞ…ごめんなさ…ごめんなさぃ……。」
謝る三郎に雷蔵は振り向かない。
俯く三郎の視界の端に、雷蔵の手を覆う白い布が入ってますます三郎は涙を零した。
パタッ、パタリ、と涙の粒が木の床を叩く音が響く。
「三郎は、」
ようやく聞けた声に、三郎は勢いよく俯いていた顔を上げた。だが、雷蔵はいまだ背を向けたままだ。
「らいぞ…?」
「三郎は分かってやっているの?」
「ふぇ…?」
雷蔵は振り向かない。だが、その声音は三郎の身を引き裂くような冷たさを纏っている。
「お前のその態度が。どれだけ僕をみじめにさせてるか。」
「なに……?」
「僕はお前ほど目端が利くわけでも、体が動く訳でもない。そんなの、分かっていたことだろう。」
「だから、だから私が、」
「違う。」
くるりと振り向いた雷蔵が、白に覆われた手で三郎の胸倉を掴む。
ぐっと引かれ呼吸が苦しくなるが、三郎はそんなことは微塵も感じないようにただ怒りに染まる雷蔵の目を見つめていた。
「その僕が、どんな気持ちでお前の傍で戦っているか、お前は本当に分かってるのか?」
「!らいぞ、血が」
「聞け!」
目の前で自身の制服を掴む雷蔵の包帯が赤く染まるのに三郎が上擦った声を上げるが、雷蔵の怒号でもってそれも制される。
「お前を、三郎を傷つけたくないからだ。」
「………え?」
「ああ十分にお前は強い。だが、お前ほど脆いやつも、僕は知らない。守りたいと、弱い僕が思うのはそんなにおかしいか?」
「らい、」
「僕が傷つくことで、それも、こんな治る傷でお前が傷ついてどうする!!」
「雷蔵…。」
「泣くな三郎。僕は、僕のことで傷つくお前を見たくない。」
「雷蔵。」
「三郎。お前には、笑っていてほしいんだ。僕なんかとは全然関係ないところでいい。三郎が泣くところを、見たくないよ。」
掴んでいた手が外され、涙の跡の残る頬へ滑る。
「それは…無理だ。雷蔵。」
「…僕の言うことが聞けないの?」
「ああ。そればかりは聞けない。雷蔵だってわかってない。全然、分かってない。」
三郎は頬へ伸ばされた手をしっかりと握り、まだ涙の残る目でしっかりと雷蔵を見つめた。
「だって、雷蔵が好きなんだ。」
何度も聞いた科白に雷蔵の目が問うようなものへ変わる。
「雷蔵が好きで、好きで、好きで、どうにかなりそうなんだ。その君が、血を、流して…。」
「三郎。」
「傷つかないなんて、言う方が無理だ。」
「…泣くなっていうのに。」
呆れたようにため息を吐く雷蔵の目に、もう怒気はない。
掴まれているのとは反対の腕で、三郎を抱き寄せて、涙を零す頭を自身の肩へ埋めてやった。
「…この馬鹿。」
「馬鹿でいい。」
「三郎のことじゃないよ。」
ぐすぐすと嗚咽を上げる三郎の背を叩いてやりながら、もう一度雷蔵がため息を吐く。
「…ごめん。僕が強ければ済む話なのに、八つ当たりした。」
「ちがっ、私が、雷蔵に…!」
「三郎。」
「!!!」
「君に、笑っていてほしいのも、傷ついて欲しくないのも本当。」
「そんな…私だって!!」
「だから、強くなろう。こうして、お互いに傷つくことがないように。」
だからもう泣かないで。
びしょ濡れの肩から顔を上げさせれば、そこには雷蔵の思った通り涙やら色々なものでぐちゃぐちゃになった顔。
思わず笑みを零した雷蔵に、三郎が慌てて顔を抑えて修正する。
それでも、再び溢れた涙に三郎が目を擦ろうとするので、その手を抑え、そっと口を寄せてその涙を吸い取った。
「三郎。君が好きだ。」
「らいぞ…!!ごめ、ごめんなさい…!!」
「うん。僕もごめん。」
コツリと合わせた額の温かさに、雷蔵の目からも涙が浮かぶ。
それをすかさず吸い取る三郎に、雷蔵がそっと微笑んだ。
君が僕の隣にいること。
僕が君の隣にいること。
お互いを守って。
お互いの幸せを願って。
そして、二人で笑うこと。
ああそれがきっと、僕らが生まれた意味だ。
お互いがお互いのために生きること。
それは、なんて幸せなことだろうか。

あとがき
鉢屋の日記念雷鉢!!
ギリギリ間に合った!?
久しぶりの小説なのでおかしいところあったらすみません。三郎くんが幸せなのが一番好きです。


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