ある夜の一幕







深淵が、私を覗きこむ。

私の小さな体はそれにどんどん飲み込まれて、暗い色に染まる体に恐怖を覚えて叫ぶ。
誰か、誰か、誰か、誰かっ。
そう叫びながら私は誰の名前も呼べない。
助けを求めたいのに。名前を呼んで、助けてと言いたいのに。
私は誰の名前も呼べない。
誰も、私を助けてくれない。
ねえ助けて。誰か、誰か助けてよ。
助けを呼ぶ声は空しく、私はただ暗闇に染まった。



ぽろぽろと耳の横を流れる水にふと意識が上った。
目の前は暗い。だが、これは知っている暗さだ。
目を向けた障子の外はまだ夜の色である。
そのまま上半身を起こした私は顔を横に向け、穏やかな寝息を立てている雷蔵を見つめた。
「…らいぞう。」
名前を、呼んで。
「はちざえもん。へいすけ。かんえもん。しょうざえもん。ひこしろう…………。」
名前を呼んで、私はそっと顔を覆った。
名前を呼べる。
そのことにほっと息を吐く。そして、ようやく背中をじとりと嫌な汗が流れるのに気がついた。
全て夢だ。現実ではない。
だけど。
まだ涙は流れるのを止めない。
「……さぶろう?」
私の起きた気配を感じ取ったのか、雷蔵がいつの間にか寝息を引っ込め寝ぼけた目で私を見上げている。
「…ぃぞ。」
「どうしたの……?怖い夢でも見た?」
体を起こした私に合わせるように、雷蔵も体を起こす。そのままもぞもぞとゆっくりした動きで、そっと私の傍らへ体を寄せた。
「ん?どうしたの?」
寝ぼけた声で、まるで小さな子を慰めるようだ。
「らいぞぉ………。」
「うん。よしよし。」
背中を撫でてくれる手は温かい。優しく抱きしめてくれる腕が力強い。
本当に小さな子になったように、私は涙を止めることができなくなってしまった。
「まっくらで………だれも居ないんだ…………。わたしは、たすけてって、言ってるのに……………。誰の名前も、呼べなくてっ。」
ひたすら暗闇で助けを呼ぶ。
でもだれの名前も呼べない。浮かばない。本当に一人きりでいる、あの恐怖。
私はぎゅう、と雷蔵の夜着にしがみついて彼の胸元に顔を埋めた。
「誰も呼ばないから、誰も、私を助けてはくれなくて、私は怖いものに捕まってしまってっ。」
「それは、困ったねぇ。」
穏やかな声だ。
だがやはりその声は子供をあやすそれのようで。涙を拭わないまま私は雷蔵の顔を見上げた。
その私を、雷蔵が声のままの穏やかな表情で見下ろしている。
「夢だよ。全部。」
「でもっ」
あれが現実になったらと、やはり恐怖に体が竦む。
そうなのだ。あれが、いつか現実になってしまうかもしれない。
誰の名前も呼べない。誰の助けも求められない。
雷蔵で、さえも。
またじわりと涙を浮かべた私の目尻を、雷蔵の指がそっと拭う。
「大丈夫。決して現実にはならないから。」
「そんなの…わからないじゃないか。」
いつか人は離れる。例外なんてない。
首を振る私の顔を、雷蔵が根気よく言い聞かせるように上向かせる。
「だから、大丈夫だよ。だって、僕が三郎の傍から離れることなんてないもの。」
ね。と笑う雷蔵の顔はいつもと同じ優しい、心が温まるそれで。
その目に映る私の顔は虚をつかれたようにきょとんとしていた。
ぱしぱしと何度か瞬きを繰り返し、ようやく雷蔵の言葉の意味を理解する。
「………離れない?」
「片時も。」
「………わたしが、雷蔵の名がわからなくなっても?」
「そんな時なんて想像つかないけど。」
ふふ、と雷蔵が笑った。そのまま、私の顔に当てていた手をそっと首へ下ろす。
「その時は、僕がお前の息を止めてあげる。」
首に触れた手は温かく、力はこめられていない。ただそっと首筋を撫でる手に、私は手を重ねた。
「……本当に?」
「うん。そしたら、お前が寂しくて泣くこともないだろう?」
そして額に落とされる口づけ。
止めを刺されたように私の体から力が抜けて、恐怖も一緒に抜けてしまう。
「わかったかい?」
「うん……。」
「じゃあ寝よう。一緒に寝てあげる。」
そう言って雷蔵はもぞもぞと私の布団にもぐりこんで、私の体を抱きしめる。
あやすように髪を撫でられ背中を優しく叩かれ、私の瞼はすぐに落ちていった。
今度はきっと、悪夢は見ない。
安心して眠る私の額に、温かな口づけがもう一度落とされた。



あとがき
この話の見どころ
@怖い夢を躊躇い無く話す14歳鉢屋三郎(雷蔵の教育の賜物)
A「よしよし」って慰める不破雷蔵14歳。
三郎かわいい雷蔵かっこいい。

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